2020年12月22日(火) 於 大和川酒蔵北方風土館昭和蔵
作 松原俊太郎
演出 中尾幸志郎
メンバー 岩下拓海 岡澤由佳 副島裕太郎 田中優之介 土田高太朗 長沼航 原涼音
小林可奈子 笹原花
2020年12月22日(火) 於 大和川酒蔵北方風土館昭和蔵
作 松原俊太郎
演出 中尾幸志郎
メンバー 岩下拓海 岡澤由佳 副島裕太郎 田中優之介 土田高太朗 長沼航 原涼音
小林可奈子 笹原花
当団体は、当団体が取得した個人情報の取扱いに関し、個人情報の保護に関する法律、個人情報保護に関するガイドライン等の指針、その他個人情報保護に関する関係法令を遵守します。
1. 個人情報の安全管理
当団体は、個人情報の保護に関して、組織的、物理的、人的、技術的に適切な対策を実施し、当団体の取り扱う個人情報の漏えい、滅失又はき損の防止その他の個人情報の安全管理のために必要かつ適切な措置を講ずるものとします。
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当団体は、当団体が主催する公演及び販促活動、イベント(以下「演劇活動」と総称します)の運営に必要な範囲で、申込者及び来場者から、ユーザー又は掲載主に係る個人情報を取得することがあります。
(2)個人情報の利用目的
当団体は、当団体が取得した個人情報について、法令に定める場合又は本人の同意を得た場合を除き、以下に定める利用目的の達成に必要な範囲を超えて利用することはありません。
① 演劇活動の運営、維持、管理
② 演劇活動の品質向上のためのアンケート
(3)個人情報の提供等
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4. 個人情報の第三者提供
当団体は、個人情報の取扱いの全部又は一部を第三者に委託する場合、その適格性を十分に審査し、その取扱いを委託された個人情報の安全管理が図られるよう、委託を受けた者に対する必要かつ適切な監督を行うこととします。
5. 個人情報の取扱いの改善・見直し
当団体は、個人情報の取扱い、管理体制及び取組みに関する点検を実施し、継続的に改善・見直しを行います。
6. 個人情報の廃棄
当団体は、個人情報の利用目的に照らしその必要性が失われたときは、個人情報を消去又は廃棄するものとし、当該消去及び廃棄は、外部流失等の危険を防止するために必要かつ適切な方法により、業務の遂行上必要な限りにおいて行います。
7. 苦情や相談の担当窓口
当団体は、個人情報の取扱いに関する担当窓口及び責任者を以下の通り設けます。
団体名:散策者
Emai:the.sansakusya@gmail.com
個人情報相談窓口責任者(制作):田中 優之介
散策者は現在公演と発表会の両輪で創作活動をしています。公演は観にきていただいたお客様にパッケー ジングされた作品を楽しんでいただく形式ですが、発表会はふだん劇場では見られない稽古場での実践を 劇団員と参加者とで共有し、作品が作られていくプロセスを楽しんでいただくというコンセプトになっています。Vol.2では太田省吾の戯曲を集まった全員で声に出して読みます。書かれた台詞を読むことで起きる「役と重なる/役から外れる」という事象を見つめ、その時に何が起きているのかを考えていく場になればと思います。とはいえ、本発表会で創造性や読みの技術は求められません。日本語で書かれた戯曲を音読でき上記の問いを共に考えてくださればどんな方でも歓迎いたします。俳優として活動している方はもちろん、演劇に俳優以外の形で関わっている方や演劇に親しみのない方も気軽にご参加ください。
目的
「役と重なる / 役から外れる」の実践と観察、プロセスとしての作品受容。
対象
日本語を音読できる方なら、誰でも歓迎です。各回のコピー代だけ頂く予定です。
スケジュール
2019年
4/6(土)『乗合自動車の上の九つの情景』
4/16(火)『小町風伝』
5/1(水・祝)13:00-16:00『裸足のフーガ』
5/14(火)『死の薔薇 プラスチックローズ』
5/29(水)『棲家』
6/4(火)『更地』
6/18(火) 『↗ヤジルシ』
6/25(火)予備日 ※5/1以外は18:00~21:00で実施します
流れ
1. 一台詞ずつ全員で回し読み 2. 役を当てて読む 3. 空間を使って読む
(上手に読むということはしません。技術向上が目的ではないので安心してご参加ください。)
パフォーマンスの上演終了後に、「散策タイム」を実施しました。これは「見る」以外の演劇との関わり方を探るためのワークショップとして考案されたものです。
『白む』での「散策タイム」では、戯曲の一部を黙読・音読し、参加者同士が考えたことや感じたことをシェアしました。上演を見るのとは異なる形で「書き言葉に耳を傾けてみる」ことを目指す時間でした。
以下は、実際に対話の助けとして使った模造紙の記録写真です。参加者の読みや感覚がそれぞれのスタイルで書かれています。
このほかの記録写真はこちらから
ワークインプログレス(work in progress)とは、文字通り「進行中の作品」のことで、この特設ウェブサイトは、来るべき『オハイオ即興劇/曲』への<進捗>をある程度形にした作品ということになります。しかし、わざわざそのようなことを言い立てるまでもなく、演劇というのはそもそも、ある表面から別の表面への<移行>を指すものであるようにも思います。テクストを読み、覚え、形のある成果を提出し、それらを舞台空間上に並べる。そして、この水平的な劇の<進捗>と垂直に交わるようにして、実は作り手それぞれの日々の生活もまた、別の表面へと<移行>していくものです。
そういったありきたりな演劇の在り方、そして、それを巡るありきたりな移行を、私たちがウェブサイトという特殊な場でわざわざ再現して見せるのは、その移行そのものがあまりにありきたりであるがゆえに、取り違えたり見失ったりされる事態がよく生じるからです。表面がいつも無垢に次の表面を仕向けてくるのとは裏腹に、私たち人間はいかにそれが野暮だとわかっていても、ありえた移行を拒み、あえて表面から離れることで、自らシリアスな気分に陥ろうとしがちです。この徒労が一個人の戯れにとどまらず、集まりを通して伝染されていったとき、私たちは互いの表面を削り取ってまで、ありもしない<全体性>を欲望するようになってしまいます。
そのような危うさへの精一杯の抵抗として、この特設ウェブサイトは作られました。このワークインプログレスでは、各領分の水平的な<隣接性>を適切に保とうとするのと同時に、テクスト—日々の生活—形のある成果・・・といった垂直的な<隣接性>にも、ある程度の気遣いと努力が要求されたと感じています。先んじて、在るべきイメージが共有されるのではなく、すでに在る(あるいは、在ってしまっている)領分や表面から、<隣接>という事態そのものを浮き立たせること。そこに賭けてみようと考えたのです。
もはや「これは演劇か?」などと問う必要はありません。なぜなら、これは演劇で、これはワークインプログレスだからです。このページを訪れたみなさんが、この移行しつづける地図の上—此処はある必然性をもった人為と、コンピュータのランダム機能によって構成された地図です—を自由に散策し、なんらかの愉しみを見出してもらえたなら幸いです。
主宰 中尾幸志郎
ワークインプログレス特設ウェブサイトはこちら:https://www.sansakusya-ohio.com
3. 一歩おくれて言う、二歩おくれて書く
今日はSと線路沿いを散歩した。春らしく隅々が見渡せる天候で、いつもは目もくれないような野草も生き生きして見えた。ふとSが足を止めて、「あ、踊子草だ。」と言った。なるほど、ピンクと白の花びらを衣装みたく纏い、凛とした感じでそれは生えていた。
たとえばこういう具合に日記を書いてみる。これを日記として書くというとき、私はどうしてもあの空虚さを強く意識せざるをえない。特に第三文目の「ふとSが足を止めて、『あ、踊子草だ。』と言った。」など、こんなことを書いて一体じぶんは何がしたいのかと、疑心暗鬼に陥らないわけにいかない。
これは現実の言葉だ(ったはずだ)。ここで仮に、言葉には、現実の言葉と、日記の言葉と、劇の言葉があるのだと仮定してみよう。
現実の言葉とは、Sが足を止めて言った時点、地点における「あ、踊子草だ。」という言葉のことだ。現実の言葉に特有の魅力は、その軽妙さにある。「あ、踊子草だ。」—そんなこと口にしなくても踊子草はたしかに存在しているのに、わざわざ「そこに」「踊子草が」「ある」という事実を確認しているのである。無垢だ、とか、ばかばかしい、とか言ってもいい。
なぜこういうばかばかしい発言が、軽妙な魅力を生んでいるかというと、言葉が現実に対して一歩遅れをとるという、例の空虚さを逆手にとって弄んでいるからだ。いかなる言語をもってしても、「そこに」「踊子草が」「ある」という現実に到達することができないのは自明で、それなのに「あ、踊子草だ。」と言って、無垢に現実に接近し、挫折して見せている。そこにユーモアが詰まっている。
対して、日記の言葉はどうか。「ふとSが足を止めて、『あ、踊子草だ。』と言った。」—台無しである。かつての軽妙さはまるで失われ、シリアスな仏頂面の言葉がこちらへ差し出される。どうしてこうなってしまうのだろう。まるで、Sが「あ、踊子草だ。」と言ったという現実を、書き手(=私)がとてもとても大事に思っていて、こうやって真剣に書くほかなかったかのようだ。多くの人がじぶんの日記を他人に見せたがらないのは、おそらくこういうシリアスさに対する恥の意識がかかわっている。それはシリアスに書いたからシリアスなのではなく、日記という書きもの自体がそもそも空虚をめぐって書かれる(しかない)から、当初予定していたよりもずっとシリアスになってしまうのだ。
なぜこうもシリアスになってしまうかというと、言葉が言葉に対して一歩遅れをとっている、つまり言葉が現実に対して二歩も遅れをとっているからだ。ここまで遅延してしまうと、もはや現実の言葉において見られたような挫折感が、無意識のうちに隠蔽されてしまう。無垢に現実に接近するどころか、積極的に現実を隠蔽しにかかる。もちろんこれは第三文目に限った話ではない。「春らしく隅々が見渡せる天候で、いつもは目もくれないような野草も生き生きして見えた。」など、隠蔽に隠蔽を重ねている。この文は、今日実際に見てきた景色を「ありのままに」書こうとして書かれたものではなく、「青空だ。」「春だね。」「気持ちいいね。」「野草だ。」といった現実の言葉に一歩遅れる形でひねり出されたものである。つまり、「実際に見てきた景色」なるものに接近しているような体を装って、じつは言葉の接近する先には空虚しかないという事実、あるいは最後には挫折するしかないという運命を隠蔽しているにすぎないのだ。それゆえに、日記というのは「面白く」—こう言ってよければ小説らしく—書こうとすればするほど、隠蔽を重ねていくことになり、したがってよりシリアスで軽妙さを欠いたものになってゆく。
では、劇の言葉はどうだろう。何もない舞台に、俳優がひとり出てきて、「あ、踊子草だ。」と言ってみたら。想定される可能性は二つある。一つは、現に何もないのに「あ、踊子草だ。」と言われたことで、言葉の挫折感だけが浮遊し、軽妙さが出る。もう一つは、現に何もないのに「あ、踊子草だ。」と言われたことで、観客が「そこに踊子草がある(ということになっている)のかあ」と想像力を膨らませ、恐ろしくシリアスに、つまらなくなる。
中尾幸志郎
2. 日記に書かれた、買い物の「足」
足「について」書くことを最後まで潔癖に避けてこのエッセイを綴じることはおそらくわたしにはできないが、「について」の引力に対するせめてもの抵抗として、最近書いた日記を持ち出してみたい。日記という書きものの形式は、とりわけ生活に密着した表現物であるし、日記には大抵その日の行き先や自分の行動のことを書き記すわけだから、その行間には無意識にも「足」のことが刻み込まれている。それゆえ、日記を読むことは「足」「について」の文章を読むこととはちがい、行間に書き込まれた「足」のムーブメントを追うことになる。
以下の日記は、「散策者」が稽古の一環として二子玉川のショッピングモールに行った日のもので、わたしがこれを書いたのも、普段から日記をつける習慣があるからではなく、日記を書くまでがワークだったからだ。ワークの主な内容は、ショッピングモール内のどこかで各々の思う「舞台」を見つけてきて、その地図を描いてくるというものだった。
今この日記を読み返すと、ワークの記録としてではなく、買い物の記録としても読めることに気がついた。エッセイのこんなにも冒頭で、ワークの(それも演劇の)「足」を論じてしまえば、最終的にあまりにも生活の場から離れすぎる危険がある。ただ、買い物の「足」ということであれば、この日記の上で思考を走らせることにそれほど問題が生じなさそうだし、何より自分の書いたものであるから他人のプライバシーを晒さずにもすむ(個人名はイニシャルに変更しておいた)。買い物に関する部分を抜粋して引用する。
1/26(日)
9:00に二子玉川駅到着。改札を出るとSだけいる。ポツポツと雨が降っていて、結構寒い日。(中略)
たしか3年前に何度か来たけど、向こうのほうしか覚えてないや、あれUと来たとき以外、誰と来たんだっけ、Mと来たっけ、結構忘れてるもんだなと思いながら、「蔦屋家電」に入った。「舞台」を見つけなきゃっていう意識と、カフェインによる変な血のめぐりのせいで、あんまり心地よく歩けない。いったん、さっき話したこと全部忘れて、お店を楽しもうと思った。
一番近づきやすい本のエリアをうろうろしてみたけど、手にとるにはなかなか至らない。家電は高いし、そんなに興味もない。売り物のソファがあって座りたかったけど、そのエリアはまだ開放されてなかったし、たとえされていても一人では座れないなと思った。誰かと行動をともにすればよかったと思いながら、特に何にも触ることなく蔦屋家電を出た。なんとなく来た道を戻っていたら、50mくらい先のさっきの市場みたいなところにSがいた。目論見がかなってついていったら、また「蔦屋家電」にきた。ファミレスの呼び鈴みたいなのを二人でいじくってたら、店員の女性がそちらはIHでして…と絡んできた。その変なリモコンで火力を調節できるらしい。Sが聞いてるふりをしてくれたので、リモコンをいじり続けて話が終わるのを待った。ほかにも、悪目立ちしそうなユニオンジャックの冷蔵庫とか、別にふつうのコーヒーミル(豆が置いてあって試し挽きできた)とかいろいろあった。あわよくばS(※ここまでのSとは別人)の誕生日プレゼントを見つけようと思っていたら、目立つ色のサンダルみたいなのがあって、試し履きしたらすごくふかふかだった。時間があったら買おう。もう11:00を回ってたので、地図を書くためにSはいなくなった。
わたしはこの日、蔦屋家電への二度の来店のうち、Sと入った二度目の方が居心地よい時間を過ごせたのだった。一度目の来店について、わたしは「家電は高いし、そんなに興味もない。」と書いたが、その後二度目の来店ではいろいろと家電製品に触れてみたことを書いている。変化の要因は明らかにSの存在だった。特に目当てのものがあるわけではない買い物は、一人よりも誰かと一緒にいた方が「上手に」歩けるものである。「上手に」とはつまり、それが「技術」の問題にかかわるということだ。わたしは買い物を誰かとともにするという一見何でもないことを、ここではあえて「技術」と呼びたい。なぜなら生活におけるこのちょっとした工夫は、すでにある意味で表現のアナロジーであるからだ。
「技術」という言葉は、標準よりも秀でていること、巧みなことに対して使われる言葉であるから、その意味で「ふつうの人」の日常的な動作とは異なる次元にある、といった感じを与えてしまうかもしれない。しかし、「身心変容技法」などと言われるような技術(技法)を探究していた、世阿弥やグロトフスキのことを思い出してみると、たしかに彼らは尋常ならざるからだの使い方を開発したのかも知れないが、その方法は空から才能が降ってくるみたいな神秘的なものではなく、日常のちょっとした工夫と地続きなもの、「ふつうの人」にもできるような明晰なものであったように思える。この二人に共通する点の一つは、演技をまず「歌/謡」からはじめようとしたことだ。歌は人間が演技するにあたって、とても有用な道具になる。わたしたちは気分がのってどこかで歌いだすとき、自然とからだを動かすことをしている。別に手「について」考えていたわけではないのに、手は踊るようにあちこちへ向かっていたり、控えめにリズムを刻んでいたりする。足「について」考えていたわけではないのに、足は気づくとステップを踏んでいたり、洗濯物を干す動作にリズムをつけていたりする。動く理由や動機をもてず、一歩も踏み出すことのできなかったからだが、「歌」というちょっとした工夫を挟むだけで理由も動機も必要なく、自然な仕方で動くことができるようになることがある。
なぜわたしはSと一緒の方が、ショッピングモールを上手に歩き回ることができたのか。それは、わたし(=歩くという行為の中にある人という意味で、以降「歩者」とよぶ)の意識が多方向に分散されることで、その足の運びが「遅足」になったからだ。誰かとともに歩くことで、歩者は店内を一周ぐるっと回ることだけでなく、相手とコミュニケーションをとることや、足取りを調和させる(歩く速さを調整する)ことにも意識を向ける。
わたしが思うに、歩者の足の運びはなによりも目的やベクトルの有無と結びついている。明確な目的が存在するとき、たとえば、玉ねぎと卵を買いに近所のスーパーへ寄るとき、その足の運びはおのずと「早足」になる。これは歩者の意識にとって、目的地以外のあらゆるディテールが問題にならないからだ。スーパーの入り口から青果コーナーに至るまでのあいだに、人目をひくように惣菜のセール品が置かれていたとしても、「早足」が解除されないかぎり、それを手にとってカゴに入れるか否か悩むことはない。「早足」の歩者にとって、目的地までに通過する道のりはのっぺりとした色のない世界であり、あらゆるディテールはたんに煩わしい存在である。ところが買い物をしていると、思いがけず惣菜のセール品に出くわし、魅力を感じて歩みを遅めるということもよくある。その場合、歩者の「早足」は解除され、一方向的な目的意識が多方向に拡散される。世界に色がつくのだ。日記でも、二度目の来店の方がより細やかに記述がなされていることがわかる(一度目についての記述が119文字であるのに対し、二度目については266文字書かれている)。特に目当てもなくぶらぶらとめぐるショッピングモールのような場所では、このような「遅足」の方が周囲の環境に順応しやすい。
生活のちょっとしたところにもついつい技術の必要性を感じてしまうのは、都市という空間のなかであまりにも多種多様な足どりが要請されるせいで、その切り替えを自然に遂行することがほとんど不可能であるからではないだろうか。わたしたちの「足」は、ショッピングモールを歩いたほんの数時間後に近所のスーパーへ向かわされるということをいつも強いられている。だが、人間の「足」が環境に適応する、つまりその空間に対してもっとも適切な時間感覚をつかむには、それなりの時間を必要とする。わたしがショッピングモールを上手く歩けなかったのは、わたしの意識が電車や自動車の速度にある程度慣れてしまって、「早足」を常態化しているからではないだろうか。都市生活のなかでは動物的な、ニュートラルな「足」の様態を保っていることはほとんど不可能で、わたしたちの「足」は程度の差はあれつねに急かされている。だから「早足」になるのに技術はいらないが、「遅足」になるためにはちょっとした工夫が必要なのだろう。
わたしは買い物のときだけでなく、たとえば散歩するときにも「遅足」の難しさを感じる。せかせかとした生活からすこし距離をおこうと公園まで出かけたつもりが、何を見てどう歩けばいいのかわからず、気づくとせかせかと外周を回りそのまま帰ってしまった、ということもあった。だが、こういう散歩の「早足」には、音楽やラジオがよく効くものだと最近わたしは思い当たった。どういう作用がはたらいているのかはっきりとはわからないが、意識を聴覚の方向へ分散させることで「遅足」が生まれるということなのだと思う。意識の分散がおこり「遅足」になると、今度は自ずと空気の感触やにおい、周囲の景色が気になってくる。ラジオを流しながら神田川沿いを歩いていたわたしは、ゆっくりと時間をかけて、失われた時間を補給しているような感覚をおぼえた。世界に色が戻った。
中尾幸志郎
1. 生活と表現
今や「非日常」という手垢のついた言葉はあまりに胡散臭く、生活から切り離されたものとして何かに接するのは不可能なことだ、と言い切ってしまいたい気持ちは強いものの、表現というものは同時に日常からの跳躍を志向してもいて、長く苦しい制作過程を経て、気がつくと生活に対する意識や感覚はどこかに追いやられてしまっている、跳躍した先で日常生活への着地点を見失ってしまっているということが、わたしのこれまでの制作においてなかったとは言い切れない。今、「足について」という題で文章を書こうとしているのは、足というものが、表現(とくに演劇)と生活とを潔癖に区別することなく渡り歩くために、最も着手しやすい「素材」—明確な輪郭(すなわち「形」)をもち、なおかつ概念や記号とは異なり、無限に多義的な意味生成を志向する物—であると思われるからだ。俳優は舞台に立つのと同じ足で、学校や職場に通うのであって、また観客は劇場の客席に縛りつけられるのと同じ足で、帰路につき電車に乗るのである。
ただ、わたしには足「について」書こうとするにあたって、注意を払わなければならない点がある。足「について」書くことは、生活と表現を横断する素材としての「足」というものから、かえって遠ざかってしまう可能性を含んでいる。言葉は何か「について」書こうとするとき、往々にして対象から距離をとり、まるでそれを眺め回すように書いてしまう傾向がある。そういう書き方、思考方法が好ましくないのは、実際に(文字通り)一歩踏み出すことが必要になる稽古場で、かえって体を動けなく、動かなくしてしまうからだ。わたしたちは普段歩いたり走ったりするときに、足「について」考えることはしない。それと同じことだ。
それならばいっそ、足をめぐる複雑な問題系に立ち入るなんてややこしい真似は止めて、いつものように(日常の様態と変わらぬように)舞台の上を歩けばいいじゃないかと思われるかもしれない。しかし、そういう戦略をとると劇場全体における二つの「足」のあいだに、表現として無視することのできない大きな亀裂が走る。俳優の「日常的な」足と、観客の客席に縛りつけられた「非日常的な」足とのあいだに。つまり、そこにいるすべての人が自由に自分の足を動かすことのできる生活空間とはちがい、劇場における観客は自分の足がわざわざ—見るために—縛りつけられているせいで、舞台上で動く俳優の足に大なり小なり見る欲望を抱くことになるが、「日常的な足」(=技術に縛られない足)は往々にしてその欲望を裏切る。これは見る/見られるの関係が前提とされたあらゆる環境に対して言えることである。見られる対象が「自然に」歩くことは、すでにその構造において不自然なのだ。
観客の足を客席に縛りつけるのであれば、その眼差しの先にある俳優の足は、生活する身体から跳躍し、眼差しに応答できるだけの説得力をもっていなければならない。そのためには、生活とその先とをつなぐ俳優独自の明晰な回路と技術が必要であり、それが十分明晰であるためには生活とその先とをつなぐ言葉の実践も不可欠であるだろう。「散策者」において、その仕事が演出家であるわたしの領分なのか、それとも俳優の領分なのかは今のところはっきりとはわかってないが、稽古場での〈内〉の仕事を文章という形で〈外〉とつなぐのは演出家の仕事だろうと思う。今はまだ、たしかに現場につながるとは言い切れないし、理論というに及ばないほど蓄積は足りないが、これから演技というものを構築していく手始めとして、地道にわたしなりのエッセイを書き進めていきたい。
中尾幸志郎
英雄のこと。大人になったら忘れてしまっていました。思えばウルトラマンは間違いなく英雄でした。子どもの頃に見た松井秀喜も英雄でした。英雄というものは、子どもの頃にだけ見えたという、小さな精霊に似ていると思うことがあります。いや、あまりに大きいものだから、そのうち、考えるのをやめてしまうのかもしれません。海の向こうの水平線を見て、地球が丸いのだといつまでも感じられることは、とても難しいことです。
三月に僕はタイに居て、朝起きたらものすごい雨で、僕は生まれて初めて冠水というものを見ました。寝巻きのまま通りに立ってみると、みんなそうして車道を見つめている。いつも観光バスとバイクで忙しい通りは川のように流れ、たまに血の気の多い若者がバイクで水しぶきをあげて、走っていく。
何もすることもないので、車道の川をぼんやりみんな見つめているのです。僕もそうしている。すると、その車道の川の真ん中を大きなベンチが流れていくのです。まるで、桃太郎の桃だ。すると、その後ろを汗とも雨水ともつかず、ずぶ濡れになりながら追いかけていく少年が現れる。
どうしてなのか。不思議なことだ。僕もみんなも、あのとき確かに、ハラハラと固唾を飲んで少年の行方を追ったのでした。そして、少年の手がベンチをひしと掴んだとき、歓声と口笛と笑い声がその通りにワッと沸き起こったのです。確かにその街のビーチからは水平線がよく見えました。
その少年はその瞬間、英雄的だったと、言わざるを得ません。なにかをみんなが、無根拠に見つめている。マツイの白球をすべての観客がある一瞬だけ見つめているようなものだ。英雄とはそんな短い時間の奇跡のことかもしれません。
作家 新居進之介
いま、作品のことを書こうとして、金色のアマガエルを見つけた日のことを思い出しました。夏休みのある日、うちのそばにあった田んぼで遊んでいると、数歩先にアマガエルがぴょんと現れました。はじめは目を疑いましたが、たしかにそのカエルはいつもの緑色ではなくて、はっきりとした金色だったのです。それで絶対逃がすまいと、慎重に慎重に近寄ったところ、そのカエルは微動だにしないでいてくれて、あっさりと捕まえることができました。ところが、虫かごに入れてよく見ると、カエルはいつもの緑色をしていたのです。どうしたわけかと不用意に籠をあけてそのカエルをいじくっていたら、跳びはねて逃げてしまったのですが、不思議なことにそうするとまた金色に戻っていました。帰って母親には光の当たり方でそう見えたのだと言われましたが、「そんなことでは収まりがつかない」と思ったあのときの気持ちをよく覚えています。
この世界には、捕まえるということが適切な関係の仕方ではないような相手がいるのだと思います。歯がゆさや寂しさはそこから生まれるのかもしれませんが、私はあの日、不思議と開放感のようなものを感じていました。私はこの制作のあいだ、そういう開放感のことをずっと考えていたような気がします。
演出 中尾幸志郎