(台詞を)言えないことがある。 

岡澤由佳

 約2年半前の公演『アイルトン・セナの死んだ朝』に際して、文章を書いたことがある。それは、台詞が言えないということから散策者の稽古場について言葉にしてみるということをしていた。この文章はその話題を踏まえて書いてみている。

 今回の『話』という作品・その稽古場について言葉にするには、「思い出して話す」ということについて言葉を尽くさなければならない。なぜなら、今回は『アイルトン・セナの死んだ朝』やそれ以前の作品制作のようにもともとテキストがある状態から始めたわけではないからだ。「思い出して話す」ことで制作され、「思い出して話す」ために制作をする。この繰り返しが今回の稽古であり、表れ出たものが『話』という作品だからこそ、ここでは「思い出して話す」ことについて自分の言葉で整理することを試みたい。

「思い出して話す」ことは(当たり前ではあるが)思い出すことと話すことの二つに要素を分けることができる。稽古をする中で、私にとって前者はわりと得意で苦がないのだけど、後者の「話す」ことが難しいということを認識した。他の人によってなされた話や話された場の環境から紐づいて思い出されることは複数ある。しかし、その思い出したことを話す時、どれを選択しても話すにはハードルがある。高い低いはあれど0cmになることはない。

ここには台詞が言えないことがある、よりも根深い言えなさがある。台詞が言えないというのは俳優としての言えなさである。一方で、「思い出して話す」ことの言えなさは俳優としての言えなさに加えて、一個人としての言えなさ、あるいはその両方がある。つまり、「場に影響を受け、適した話をすることができているだろうか(できていないんじゃないか)」という俳優としての意識だけではなくて、「ちょっと話したくない事柄だな」という一個人としての意識が働くことがあるということである。

 

早い話、話すことが怖いのである。

 

けれど面白いことに、「ちょっと話したくない事柄だな」という意識が働いた場合であってもその事柄について話すこともある。前述の例えで言うならば、高めのハードルがあるにもかかわらず、飛んでみようと試みるということである。こんな賭けに出てしまうのには、話すという手段によってある事柄が場に共有された時、何かが始まることがあるからだ。こんなに曖昧な言い方でしか説明できないのがもどかしいけれど、何かというのはその瞬間に立ち会ってみないとわからないのだから仕方がない。

1つヒントになりそうなこととして、シェアリング・エンパワーについて引用する。

 

思えば、分かち合いは、人間生活、人間関係の基本です。市場交換ではなく、分かち合う、ただそれだけのことが、何かを引き起こし、何かを生み出し、何かを癒す。その出来事が一歩でもより良く生きることを助けるなら、シェアリング・エンパワーが作動していると言えるのではないでしょうか。だったら、その力をアートだろうが、学問だろうが、いや本当は日々の暮らしの中で、使わない手はないでしょう。

岡原正幸『アート・ライフ・社会学 エンパワーするアートベース・リサーチ』

 

言えないことがある。それでも、分け合うように話したくなってしまうこともある。話すことが話した人自身の癒しになることがあること、話されたことがそれを聞いた人を癒すことがあること、身に覚えがある。

ただし、話すことが賭けであることには変わりない。あいかわらず話すことは怖いし、話すことが必ずしも“何かを引き起こし、何かを生み出し、何かを癒す”とは限らないから。

まずは、「思い出して話す」ことに身を賭してみようと思う。そこから何かが始まっていくことを信じて。

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