演技の恥ずかしさ

長沼航

 「演劇をやろう」と聞くとどこか構えてしまう、演技をするのはむず痒い、人前でなにかするなんて恥ずかしい。きっと誰もが人生の中で一度は行き当たったことのある感覚なのではないでしょうか。
 私は俳優として活動しているので、日々そういった「恥ずかしい」ことをやっています。しかし、俳優だからといって恥ずかしさを感じていないわけではありません。演劇を始めたころは、大きな声を出す目的も方法もよくわからずに困惑していましたし、今でも舞台上で大声を出したり変な動きをしているときに「おれはなにをやっているんだろう」と感じてしまうことがあります。もちろん、恥ずかしげのない演技が持つ良さも理解できなくはありません。俳優を名乗るのであれば恥や戸惑いなどは素早く乗り越え、最大のパフォーマンスを発揮できるべきだという考えもあるでしょう。そうした見方からすれば、私はあまり良い俳優ではないのだと思います。しかし、そういった演技観にいまいち乗り切れない私は、この恥を抱えたまま、かつ、恥に飲み込まれないようにして演技できるようでいたい、とどうやら思っているようです。

 このエッセイでは演技はなぜ恥ずかしいのかについて考えてみたいと思います。美学者の西村清和は『遊びの現象学』という著作のなかで演技と恥の繋がりについて述べています。西村は、子どもたちがおままごとで行っている「演技」と、俳優が舞台上で行っている演技とを区別するために以下の例をあげます。子どもがおままごとをしている。その子のやっているお母さんの「演技」がとても良いからと、周囲で見ていた大人がさっきの「演技」をもう一回やってみせてほしいと頼む。すると、これまでの生き生きした「演技」とはうってかわって、子どもは恥ずかしがってしまい繰り返すことができない。この例では、子どもがそもそも行っていたのはカッコ付きの「演技」であり、それを実際に演技として遂行しようとするとき、それは恥ずかしさによって妨げられてしまうと考えられます。
 この演技が恥によってできなくなってしまう状況をみることで、恥と結びつく演技の特質が取り出せるでしょう。その特質とは、つまり、①他者を模倣すること②それを反復すること③それが他者の前で行われること、の3つです。
 一つ目の他者の模倣は最もポピュラーな演技の定義なのではないでしょうか。自分とは異なる人物や生き物(ハムレット、浦島太郎、木など)の真似をするのを演技と呼ぶことは、少なくとも現代に生きる人の通念には適うものだと思います。ただ、私が出演しているような作品では、明確なかたちで他人のフリをすることのない演技もあるので、「自分の心身を表現のために独自の仕方で造形する」と言い換えてもよいかもしれません(「芸術的表現」「造形」という言葉は西村が演技を説明するのに使っている言葉です)。どちらにせよ、ここで重要なのは模倣や造形のなかには演じる主体の「意志」が含まれるということ、そして演じることのなかにある作為や意志(西村の言葉で言えば「造形の意志」)が場の構造を全く変えてしまうということです。
 演技は何らかの意志をもってなされます。意志が介在することで、そこでは演じる主体と演じられる対象のあいだが問題になります。例えば、ハムレットを演じなければいけない状況になったとしましょう。すると、一つの道筋として、ハムレットはだいたい何歳くらいで、ふだんどのような文化のなかで暮らしていて、どんな性格の人間なのかを解釈する方法を採ることができるでしょう。それを受けて、私がハムレットを演じるときに採用する歩き方や喋り方、身のこなしなどを決めるという流れが考えられます。お遊戯会で演じる浦島太郎や木の場合には、こんなことは考えずにとりあえずいい感じに演技するくらいにとどまるかもしれません。しかし、ここで大切なのは、どんな演技のスタイル・アプローチを選択するにせよ、演技する対象を私がどのように捉えているのか、私の心身をどのように動かせばより良い演技を実現できると私が考えているかが、演技の実践を通して詳らかになってしまうということです。他人を模倣する、ないし、何らかの表現に向けて自分を造形する営みは、不可避的に私のうちに他者——演じる対象や(部分的に)操作可能な対象としての私の心身など——を引き込みます。そして、演技という実際の行為を通すことで、自分がそれらの他者的存在をどう認識し操作しようとしているかが生々しく明らかになってしまいます。さらに言えば、そこで認められる認識は演技する私と紐づけられます。言い換えれば、舞台上で行う振る舞いの責任が演じる私の意志に帰せられることになります。ふだん他の人よりはいつも大声で喋っている私も、演技の場ではなんだか大声を出すのは決まりが悪く感じるのも、大きな声を出していることに作為や意図の存在を見てとられてしまうからだと思います。そうして、演じる行為によって生まれた私と他者との関係が、演技のなかで常に触知可能な状態にされているという感覚。これが演技するときに感じる恥の一つの形だと私は思います。
 二つ目にあげた反復もまた、上記の例から明らかなように、恥ずかしさの原因となっています。おままごとは繰り返されることがないですし、それを繰り返してほしいと言われると困惑してしまう。これは、おままごとのなかの「演技」と舞台上の演技が異なる構造を持つことを端的にしています。演技の場合は、先述の「造形の意志」と結びつく形で反復が行われます。稽古においても本番においても何度も同じ演技を繰り返しながら、それが表現としてどのような効果を持ちうるかを検討していくことになり、自分の意志が繰り返し問われ続けます。繰り返すなかで私の意志がより明瞭になっていってしまうことの恥ずかしさがまずあるということです。また、こういった見方もできるでしょう。反復は距離を生み出します。距離とは、自分が以前に行った演技と次に行う演技の間にある感覚です。繰り返し演じることによって、私のなかでいくつかの演技が時間を越えて並列することになります。つまり、演じる私には過去に行った演技の記憶が貯まっていて、それらが自分の身体のうちに経験として刻まれています。そのうえで、過去のうまくいった/いかなかった演技とどのような関係をとるかも、また俳優の選択として見られることになります。演技には、繰り返しながらも初めてであるという反復性と一回性との両立が求められるので、単に前にやったことを再度やるのではなく、毎回新たな発見が起こるような道を選択する必要があります。その繰り返しとわずかな更新のバランスを取ることにある、ひりつく感覚もまた恥ずかしさとして私は認識しています。
 三つ目の観客の存在については比較的誰もが共感しやすいと思います。お風呂の中でならできても、他人の前ではできないことはたくさんあります。また、おままごとでは遊びの参加者だけが見ているわけで、それを外側から観る人は想定されていません。対して、演技はそもそも他人に見られることを前提としています。観客が座っていてその前で演技することのリアリティは、自分の感覚のうちに他者が否応なく入り込んでくるというところにあります。具体的な身体、それも観客としてある種の日常性を抱える身体を持った他人が目の前にいることで、私の演技は相対化されます。「普通」の身体に対して、私のこの変な身体はアクセスできている?黙ってこちらを見ている人々の反応や無反応をその都度拾いながら演技を進めるなかで、部分的にしかわからない他者の判断とともに演技することのまごつき(「おれはなにをやっているんだろう」)が恥としてせり上がってくるのです。
 ここまであげた演技の3つの特質は、それぞれ、演じる-演じられる、繰り返す-繰り返される、見る-見られる関係と言い換えることもできます。つまり、演技のうちには複数の自他関係(俳優と戯曲(登場人物)、造形の意志と私の心身、過去の演技と現在の私、俳優と観客など)があり、それらが織り込まれたものとして演技する場は成立していると言えます。そして、そのような自己と他者のあいだの距離、それらを結ぶ意志の存在が、演技するときの恥を生み出すのです。

 ここまで演技のなかで感じる恥について整理してきましたが、少しだけ今回のクリエーションの話をして本稿を締めくくりましょう。
 『話』という作品を作るにあたっては、これまでの散策者での創作とは異なるプロセスが採用されました。これまでは、テキストがあらかじめ決められたなかで、それを効果的に上演するための方法を見つけていくために稽古場がありましたが、今回は舞台で起こしたい現象から上演すべきものを掴まえていく、そのための実験を行うことで上演を作り上げてきました。具体的にいえば、稽古では自分自身の経験・エピソードを話したり、人から聞いたエピソードについて話してみたり、他人の言葉を覚えて語ったりと、「話」の様々なパターンを試していました。そこで重要なこととして発見されたのは、身を賭した話をすることで話す/聞く主体がその都度生成される感覚です。もちろん、身を賭すといっても、明かしてはいけない国家機密を暴露したり、逆さ吊りになったりとか、そういうことではありません。簡単に言えば、他人にするにはセンシティブで恥ずかしい話をあえてするということです。他人に聞かれていいのかまだ自分でもよくわからないような未分化な話を場に投げ出してみる。そうして、恥ずかしさを抱えながらも語り始められた話は、話す側の土台も、また、話を聞く側の土台も常に揺さぶるような感覚を生みます。ここで恥を感じるということは、まさに自他の関係が問題になっているということであり、そして、今回の創作ではその恥の感覚を消去しないこと、つまり自分と他者の関係を時間のなかで作っていくことが重要視されていると私は思います。
 稽古場で話しているときに覚える「恥ずかしさ」のうちには、私たちの輪郭線が震えるような感覚があります。「この話をして聞き手はどう思うだろうか」とか「自分が自分に対して話すことを許せるのはどこまでだろう」という諸々の感覚的判断がなされるとき、私たちがクリエーションのなかで目指しているのは、その震え自体を見聞き感じるような経験です。どうしたら劇場のなかで、そうした自己と他者のあいだの揺らぎを見つめることができるかを試行錯誤してきました。振り返ってみると、散策者が通ってきたのは、演劇/演技における恥を肯定的に捉え、作品や上演のうちにうまく流し込むための一つの道だったのかもしれません。

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長沼航(ながぬまわたる)
俳優。1998年生まれ。 散策者とヌトミックの2つの劇団に所属しつつ、演劇やダンスなど舞台芸術の創作・上演に幅広く関わっている。マイブームは町中華のオムライス。2022年は多くの場所に行って色んな人に会いたい。(写真:佐藤駿)

 

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