発明家の孫に生まれて

田中優之介

文章を書くにあたって、散策者の稽古場のことを考えていた。散策者の稽古は、半分くらいが議論に費やされる。上演の全貌を把握しているものは誰もいない、というより、把握しようとすることが重要にならない。代わりに、今できることや身の回りにあるもの、もしくはそれらの一歩先を見てみて、やってみて、組み合わせて、なにか私たちが目指すに足るものが見えてこないか、ひたすらにもがいている。

したがって、散策者の稽古場には羅針盤も地図もない。たぶん、あっても使わない。「もがく」という運動だけがある。自立的でハタから見ると何をしているのか分からないその様子は、腸の蠕動運動に似ていると思う。もがいて、もがいて、そこから得た微々たる手応えを頼りに、次なる場所を見つけ、そこでまたもがく。そういうことを繰り返してきた。あるとしても「どこから来たか」だけであり、どこに向かうとか、そういう話ではない。

ここで1つ、僕の話をしたい。僕の源流の話の1つ。

僕は、祖父が発明家だった。まだ現役だから正しくは「発明家だ」なのだけど、ともかく彼の仕事は、まったく新しい商品を世の中に生み出すことだ。幼少期のほとんどを、祖父母に面倒をみてもらったからか、いつしか僕も祖父のように新しいものごとを作れる人間でありたいと思うようになっていた。

でも、大きくなるにつれて、この夢がそう単純ではないことに気づく。「新しい」ってなんなのだろう。「新しい」はどのようなプロセスから生まれるのだろう。僕には、そういうことが分からない。

僕は、「新しいアイデア」は降ってくるものだと思っていた。いっぱい勉強をして、いっぱい考えていれば、いつか天啓のように見えるものだと思っていた。しかし、“降ってきた新しいアイデア”は往々にして新しくなく、面白みがないことが多かった。

たぶん、新しさは、地を這うようなプロセスの中に初めて見出される。実際、見出される、なんて劇的さもなくて、たぶん「地を這っていたら石ころと一緒に口に入ってきた」みたいなものだと今では思っている。

今回の公演で、僕は初めて制作という役割を担っている。制作の仕事は、物事をつつがなく進められるよう、いろいろな手筈を整えることだ。「目的・目標」から逆算して仕事をすることが心地よく感じる僕には、よく合っていると思う。

でも、そういう逆算的プロセスから新しさが見出されることは少ない。なぜなら、すでに目指している景色が描かれてしまっているからだ。頭で描ける景色なんてたかが知れていて、それは見たことや聞いたことのあるもの、つまりが新しくないものになってしまう。

散策者の稽古場で、演出や俳優は蠕動運動を続けている。制作の立場になってみると、それのいかに遅く、遠回りに見えることか。でも、そうやってグネグネと地を這っていることでしか新しく面白いと思える景色は立ち上がらないのだと、ようやく最近思えるようになった。

今のところ、僕に蠕動運動はできない。向いていないと思う。だけど、新しい景色を立ち上げる一助にはなりたいから、稽古場が向かってゆきそうな道を必死にならしてみたりしている。

 

▼散策者『話』の公演情報はこちらから

▼ご予約はこちら

Passmarket|散策者『話』|2022/3/19(土) 13:00~2022/3/21(月) 18:00