散策者新作パフォーマンス『西尾久を散策した』(円盤に乗る場「NEO表現まつり」参加作品)

散策者は2022年11月よりシェアアトリエ「円盤に乗る場」のメンバーです。そして、2023年6月、円盤に乗る場が主催する「NEO表現まつり」において、新作パフォーマンス『西尾久を散策した』を発表します(イベント全体についての詳細はこちらからご確認ください)。2019年からコロナ禍をはさんで久しぶりの上演となる今回は、これまでから大きくクリエーションスタイルを変え、いまできる集団創作のあり方を模索したものとなります。奮ってご来場いただければ幸いです。


作品について
岩下(がん)・岡澤(ゆか)・田中(すけ)・中尾(なかお)・長沼(ビリー)・原(すずね)の6名が、西尾久を散策した経験をもとに、パフォーマンス作品をつくります。この作品は、6名が西尾久を観察し、取材の対象を決め、身近な環境を取材し、試しにつくったものから構成されます。作品のイメージ写真(上)は、その取材の過程で撮られた写真の一部です。「人々が好き勝手に生きていて、でも同時に(隣あって)いる」ということをやります。よかったら見に来てください。(中尾幸志郎)

クレジット
出演・構成:岩下拓海、岡澤由佳、田中優之介、中尾幸志郎、長沼航、原涼音
協力:貸民家プライベイト(Post Passion Fruits)、庄島明源

タイムテーブル
2023年6月23日(金) 13:00~ A
2023年6月24日(土) 13:00~ B
2023年6月25日(日) 13:00~ A / 18:00~ A

※いずれの回も他のアーティストの作品との2本立てになります
A→辻村優子『ほぐしばい〜実話怪談編〜』+散策者『西尾久を散策した』(52分)
B→隣屋『ぼく』(約20分)+散策者『西尾久を散策した』(52分)

会場
おぐセンター(東京都荒川区西尾久2丁目31-1)

都営荒川線「小台」駅より徒歩5分
JR東海道線「尾久」駅より徒歩9分
JR山手線・京浜東北線「田端」駅より徒歩15分

チケット
一般 3000円
U-25 2000円
にしおぐ割* 1000円

*荒川区西尾久に在住・在学・在勤の方が対象
(受付時に、証明書(運転免許証や健康保険証、学生証、名刺など在住・在学・在勤が証明できる書類)が必要です)

予約サイト
https://emban-noruba.peatix.com/

散策者のワークショップ “思い出して話す”

散策者では作品制作の一環として、“思い出して話す”をテーマとした実験への被験者を募集します。 被験者の方々には散策者が制作した2日間のワークショッププログラムに参加していただき、そのプログラムについての聞き取り調査を行います。 1日目は新宿駅近辺の、いわゆる舞台ではない場所で「思い出して話す」ワークショップを行います。2日目はそのワークショップの経験をもとに、被験者の方々に舞台(他人からじろじろ見られる場所くらいの意味です)に立っていただきます。私たちは本実験を通して、「(この)ワークショップを経験することで、人が舞台に立てるようになる」ことを実証したいと考えています。

 

日時
事前説明会:2022年3月26日(土)12時30分 – 13時30分/ 2022年3月31日(木)20時 – 21時(いずれか1日参加)
WS 1日目:2022年4月2日(土)、3日(日)、9日(土)、10日(日)11時 – 14時/15時 – 18時(いずれか1日、3時間参加)
WS 2日目:2022年4月16日(土)12時 – 18時

※1 WSへの参加ご希望の場合、事前説明会への参加は必須です(この説明会を聞いて、参加/不参加を決定していただいても構いません)。ご都合が合わない場合、別途日程調整可能です。
※2 1日目は二人一組でのWSになります。それぞれ11時-14時、15時-18時のいずれかをお選びいただけます。人数と日程を調整の上、実施日時を個別にご連絡いたします。
※3 2日目は参加者全員でのWSになります。また、時間内にWS全体についてのアンケート・聞き取り調査を実施します。

場所
事前説明会:オンライン(Zoom)
WS 1日目:新宿駅周辺
WS 2日目:円盤に乗る場(JR「田端駅」徒歩20分、都電荒川線「小台駅」徒歩4分)

謝金(お茶代)
1,500円

定員
各回合わせて6名

応募フォーム
https://forms.gle/wTZWNdcyB92WxN8U7
(2022年3月30日(水)23:59〆切)

(台詞を)言えないことがある。 

岡澤由佳

 約2年半前の公演『アイルトン・セナの死んだ朝』に際して、文章を書いたことがある。それは、台詞が言えないということから散策者の稽古場について言葉にしてみるということをしていた。この文章はその話題を踏まえて書いてみている。

 今回の『話』という作品・その稽古場について言葉にするには、「思い出して話す」ということについて言葉を尽くさなければならない。なぜなら、今回は『アイルトン・セナの死んだ朝』やそれ以前の作品制作のようにもともとテキストがある状態から始めたわけではないからだ。「思い出して話す」ことで制作され、「思い出して話す」ために制作をする。この繰り返しが今回の稽古であり、表れ出たものが『話』という作品だからこそ、ここでは「思い出して話す」ことについて自分の言葉で整理することを試みたい。

「思い出して話す」ことは(当たり前ではあるが)思い出すことと話すことの二つに要素を分けることができる。稽古をする中で、私にとって前者はわりと得意で苦がないのだけど、後者の「話す」ことが難しいということを認識した。他の人によってなされた話や話された場の環境から紐づいて思い出されることは複数ある。しかし、その思い出したことを話す時、どれを選択しても話すにはハードルがある。高い低いはあれど0cmになることはない。

ここには台詞が言えないことがある、よりも根深い言えなさがある。台詞が言えないというのは俳優としての言えなさである。一方で、「思い出して話す」ことの言えなさは俳優としての言えなさに加えて、一個人としての言えなさ、あるいはその両方がある。つまり、「場に影響を受け、適した話をすることができているだろうか(できていないんじゃないか)」という俳優としての意識だけではなくて、「ちょっと話したくない事柄だな」という一個人としての意識が働くことがあるということである。

 

早い話、話すことが怖いのである。

 

けれど面白いことに、「ちょっと話したくない事柄だな」という意識が働いた場合であってもその事柄について話すこともある。前述の例えで言うならば、高めのハードルがあるにもかかわらず、飛んでみようと試みるということである。こんな賭けに出てしまうのには、話すという手段によってある事柄が場に共有された時、何かが始まることがあるからだ。こんなに曖昧な言い方でしか説明できないのがもどかしいけれど、何かというのはその瞬間に立ち会ってみないとわからないのだから仕方がない。

1つヒントになりそうなこととして、シェアリング・エンパワーについて引用する。

 

思えば、分かち合いは、人間生活、人間関係の基本です。市場交換ではなく、分かち合う、ただそれだけのことが、何かを引き起こし、何かを生み出し、何かを癒す。その出来事が一歩でもより良く生きることを助けるなら、シェアリング・エンパワーが作動していると言えるのではないでしょうか。だったら、その力をアートだろうが、学問だろうが、いや本当は日々の暮らしの中で、使わない手はないでしょう。

岡原正幸『アート・ライフ・社会学 エンパワーするアートベース・リサーチ』

 

言えないことがある。それでも、分け合うように話したくなってしまうこともある。話すことが話した人自身の癒しになることがあること、話されたことがそれを聞いた人を癒すことがあること、身に覚えがある。

ただし、話すことが賭けであることには変わりない。あいかわらず話すことは怖いし、話すことが必ずしも“何かを引き起こし、何かを生み出し、何かを癒す”とは限らないから。

まずは、「思い出して話す」ことに身を賭してみようと思う。そこから何かが始まっていくことを信じて。

▼散策者『話』の公演情報はこちらから

▼ご予約はこちら

Passmarket|散策者『話』|2022/3/19(土) 13:00~2022/3/21(月) 18:00

演技の恥ずかしさ

長沼航

 「演劇をやろう」と聞くとどこか構えてしまう、演技をするのはむず痒い、人前でなにかするなんて恥ずかしい。きっと誰もが人生の中で一度は行き当たったことのある感覚なのではないでしょうか。
 私は俳優として活動しているので、日々そういった「恥ずかしい」ことをやっています。しかし、俳優だからといって恥ずかしさを感じていないわけではありません。演劇を始めたころは、大きな声を出す目的も方法もよくわからずに困惑していましたし、今でも舞台上で大声を出したり変な動きをしているときに「おれはなにをやっているんだろう」と感じてしまうことがあります。もちろん、恥ずかしげのない演技が持つ良さも理解できなくはありません。俳優を名乗るのであれば恥や戸惑いなどは素早く乗り越え、最大のパフォーマンスを発揮できるべきだという考えもあるでしょう。そうした見方からすれば、私はあまり良い俳優ではないのだと思います。しかし、そういった演技観にいまいち乗り切れない私は、この恥を抱えたまま、かつ、恥に飲み込まれないようにして演技できるようでいたい、とどうやら思っているようです。

 このエッセイでは演技はなぜ恥ずかしいのかについて考えてみたいと思います。美学者の西村清和は『遊びの現象学』という著作のなかで演技と恥の繋がりについて述べています。西村は、子どもたちがおままごとで行っている「演技」と、俳優が舞台上で行っている演技とを区別するために以下の例をあげます。子どもがおままごとをしている。その子のやっているお母さんの「演技」がとても良いからと、周囲で見ていた大人がさっきの「演技」をもう一回やってみせてほしいと頼む。すると、これまでの生き生きした「演技」とはうってかわって、子どもは恥ずかしがってしまい繰り返すことができない。この例では、子どもがそもそも行っていたのはカッコ付きの「演技」であり、それを実際に演技として遂行しようとするとき、それは恥ずかしさによって妨げられてしまうと考えられます。
 この演技が恥によってできなくなってしまう状況をみることで、恥と結びつく演技の特質が取り出せるでしょう。その特質とは、つまり、①他者を模倣すること②それを反復すること③それが他者の前で行われること、の3つです。
 一つ目の他者の模倣は最もポピュラーな演技の定義なのではないでしょうか。自分とは異なる人物や生き物(ハムレット、浦島太郎、木など)の真似をするのを演技と呼ぶことは、少なくとも現代に生きる人の通念には適うものだと思います。ただ、私が出演しているような作品では、明確なかたちで他人のフリをすることのない演技もあるので、「自分の心身を表現のために独自の仕方で造形する」と言い換えてもよいかもしれません(「芸術的表現」「造形」という言葉は西村が演技を説明するのに使っている言葉です)。どちらにせよ、ここで重要なのは模倣や造形のなかには演じる主体の「意志」が含まれるということ、そして演じることのなかにある作為や意志(西村の言葉で言えば「造形の意志」)が場の構造を全く変えてしまうということです。
 演技は何らかの意志をもってなされます。意志が介在することで、そこでは演じる主体と演じられる対象のあいだが問題になります。例えば、ハムレットを演じなければいけない状況になったとしましょう。すると、一つの道筋として、ハムレットはだいたい何歳くらいで、ふだんどのような文化のなかで暮らしていて、どんな性格の人間なのかを解釈する方法を採ることができるでしょう。それを受けて、私がハムレットを演じるときに採用する歩き方や喋り方、身のこなしなどを決めるという流れが考えられます。お遊戯会で演じる浦島太郎や木の場合には、こんなことは考えずにとりあえずいい感じに演技するくらいにとどまるかもしれません。しかし、ここで大切なのは、どんな演技のスタイル・アプローチを選択するにせよ、演技する対象を私がどのように捉えているのか、私の心身をどのように動かせばより良い演技を実現できると私が考えているかが、演技の実践を通して詳らかになってしまうということです。他人を模倣する、ないし、何らかの表現に向けて自分を造形する営みは、不可避的に私のうちに他者——演じる対象や(部分的に)操作可能な対象としての私の心身など——を引き込みます。そして、演技という実際の行為を通すことで、自分がそれらの他者的存在をどう認識し操作しようとしているかが生々しく明らかになってしまいます。さらに言えば、そこで認められる認識は演技する私と紐づけられます。言い換えれば、舞台上で行う振る舞いの責任が演じる私の意志に帰せられることになります。ふだん他の人よりはいつも大声で喋っている私も、演技の場ではなんだか大声を出すのは決まりが悪く感じるのも、大きな声を出していることに作為や意図の存在を見てとられてしまうからだと思います。そうして、演じる行為によって生まれた私と他者との関係が、演技のなかで常に触知可能な状態にされているという感覚。これが演技するときに感じる恥の一つの形だと私は思います。
 二つ目にあげた反復もまた、上記の例から明らかなように、恥ずかしさの原因となっています。おままごとは繰り返されることがないですし、それを繰り返してほしいと言われると困惑してしまう。これは、おままごとのなかの「演技」と舞台上の演技が異なる構造を持つことを端的にしています。演技の場合は、先述の「造形の意志」と結びつく形で反復が行われます。稽古においても本番においても何度も同じ演技を繰り返しながら、それが表現としてどのような効果を持ちうるかを検討していくことになり、自分の意志が繰り返し問われ続けます。繰り返すなかで私の意志がより明瞭になっていってしまうことの恥ずかしさがまずあるということです。また、こういった見方もできるでしょう。反復は距離を生み出します。距離とは、自分が以前に行った演技と次に行う演技の間にある感覚です。繰り返し演じることによって、私のなかでいくつかの演技が時間を越えて並列することになります。つまり、演じる私には過去に行った演技の記憶が貯まっていて、それらが自分の身体のうちに経験として刻まれています。そのうえで、過去のうまくいった/いかなかった演技とどのような関係をとるかも、また俳優の選択として見られることになります。演技には、繰り返しながらも初めてであるという反復性と一回性との両立が求められるので、単に前にやったことを再度やるのではなく、毎回新たな発見が起こるような道を選択する必要があります。その繰り返しとわずかな更新のバランスを取ることにある、ひりつく感覚もまた恥ずかしさとして私は認識しています。
 三つ目の観客の存在については比較的誰もが共感しやすいと思います。お風呂の中でならできても、他人の前ではできないことはたくさんあります。また、おままごとでは遊びの参加者だけが見ているわけで、それを外側から観る人は想定されていません。対して、演技はそもそも他人に見られることを前提としています。観客が座っていてその前で演技することのリアリティは、自分の感覚のうちに他者が否応なく入り込んでくるというところにあります。具体的な身体、それも観客としてある種の日常性を抱える身体を持った他人が目の前にいることで、私の演技は相対化されます。「普通」の身体に対して、私のこの変な身体はアクセスできている?黙ってこちらを見ている人々の反応や無反応をその都度拾いながら演技を進めるなかで、部分的にしかわからない他者の判断とともに演技することのまごつき(「おれはなにをやっているんだろう」)が恥としてせり上がってくるのです。
 ここまであげた演技の3つの特質は、それぞれ、演じる-演じられる、繰り返す-繰り返される、見る-見られる関係と言い換えることもできます。つまり、演技のうちには複数の自他関係(俳優と戯曲(登場人物)、造形の意志と私の心身、過去の演技と現在の私、俳優と観客など)があり、それらが織り込まれたものとして演技する場は成立していると言えます。そして、そのような自己と他者のあいだの距離、それらを結ぶ意志の存在が、演技するときの恥を生み出すのです。

 ここまで演技のなかで感じる恥について整理してきましたが、少しだけ今回のクリエーションの話をして本稿を締めくくりましょう。
 『話』という作品を作るにあたっては、これまでの散策者での創作とは異なるプロセスが採用されました。これまでは、テキストがあらかじめ決められたなかで、それを効果的に上演するための方法を見つけていくために稽古場がありましたが、今回は舞台で起こしたい現象から上演すべきものを掴まえていく、そのための実験を行うことで上演を作り上げてきました。具体的にいえば、稽古では自分自身の経験・エピソードを話したり、人から聞いたエピソードについて話してみたり、他人の言葉を覚えて語ったりと、「話」の様々なパターンを試していました。そこで重要なこととして発見されたのは、身を賭した話をすることで話す/聞く主体がその都度生成される感覚です。もちろん、身を賭すといっても、明かしてはいけない国家機密を暴露したり、逆さ吊りになったりとか、そういうことではありません。簡単に言えば、他人にするにはセンシティブで恥ずかしい話をあえてするということです。他人に聞かれていいのかまだ自分でもよくわからないような未分化な話を場に投げ出してみる。そうして、恥ずかしさを抱えながらも語り始められた話は、話す側の土台も、また、話を聞く側の土台も常に揺さぶるような感覚を生みます。ここで恥を感じるということは、まさに自他の関係が問題になっているということであり、そして、今回の創作ではその恥の感覚を消去しないこと、つまり自分と他者の関係を時間のなかで作っていくことが重要視されていると私は思います。
 稽古場で話しているときに覚える「恥ずかしさ」のうちには、私たちの輪郭線が震えるような感覚があります。「この話をして聞き手はどう思うだろうか」とか「自分が自分に対して話すことを許せるのはどこまでだろう」という諸々の感覚的判断がなされるとき、私たちがクリエーションのなかで目指しているのは、その震え自体を見聞き感じるような経験です。どうしたら劇場のなかで、そうした自己と他者のあいだの揺らぎを見つめることができるかを試行錯誤してきました。振り返ってみると、散策者が通ってきたのは、演劇/演技における恥を肯定的に捉え、作品や上演のうちにうまく流し込むための一つの道だったのかもしれません。

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長沼航(ながぬまわたる)
俳優。1998年生まれ。 散策者とヌトミックの2つの劇団に所属しつつ、演劇やダンスなど舞台芸術の創作・上演に幅広く関わっている。マイブームは町中華のオムライス。2022年は多くの場所に行って色んな人に会いたい。(写真:佐藤駿)

 

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Passmarket|散策者『話』|2022/3/19(土) 13:00~2022/3/21(月) 18:00

発明家の孫に生まれて

田中優之介

文章を書くにあたって、散策者の稽古場のことを考えていた。散策者の稽古は、半分くらいが議論に費やされる。上演の全貌を把握しているものは誰もいない、というより、把握しようとすることが重要にならない。代わりに、今できることや身の回りにあるもの、もしくはそれらの一歩先を見てみて、やってみて、組み合わせて、なにか私たちが目指すに足るものが見えてこないか、ひたすらにもがいている。

したがって、散策者の稽古場には羅針盤も地図もない。たぶん、あっても使わない。「もがく」という運動だけがある。自立的でハタから見ると何をしているのか分からないその様子は、腸の蠕動運動に似ていると思う。もがいて、もがいて、そこから得た微々たる手応えを頼りに、次なる場所を見つけ、そこでまたもがく。そういうことを繰り返してきた。あるとしても「どこから来たか」だけであり、どこに向かうとか、そういう話ではない。

ここで1つ、僕の話をしたい。僕の源流の話の1つ。

僕は、祖父が発明家だった。まだ現役だから正しくは「発明家だ」なのだけど、ともかく彼の仕事は、まったく新しい商品を世の中に生み出すことだ。幼少期のほとんどを、祖父母に面倒をみてもらったからか、いつしか僕も祖父のように新しいものごとを作れる人間でありたいと思うようになっていた。

でも、大きくなるにつれて、この夢がそう単純ではないことに気づく。「新しい」ってなんなのだろう。「新しい」はどのようなプロセスから生まれるのだろう。僕には、そういうことが分からない。

僕は、「新しいアイデア」は降ってくるものだと思っていた。いっぱい勉強をして、いっぱい考えていれば、いつか天啓のように見えるものだと思っていた。しかし、“降ってきた新しいアイデア”は往々にして新しくなく、面白みがないことが多かった。

たぶん、新しさは、地を這うようなプロセスの中に初めて見出される。実際、見出される、なんて劇的さもなくて、たぶん「地を這っていたら石ころと一緒に口に入ってきた」みたいなものだと今では思っている。

今回の公演で、僕は初めて制作という役割を担っている。制作の仕事は、物事をつつがなく進められるよう、いろいろな手筈を整えることだ。「目的・目標」から逆算して仕事をすることが心地よく感じる僕には、よく合っていると思う。

でも、そういう逆算的プロセスから新しさが見出されることは少ない。なぜなら、すでに目指している景色が描かれてしまっているからだ。頭で描ける景色なんてたかが知れていて、それは見たことや聞いたことのあるもの、つまりが新しくないものになってしまう。

散策者の稽古場で、演出や俳優は蠕動運動を続けている。制作の立場になってみると、それのいかに遅く、遠回りに見えることか。でも、そうやってグネグネと地を這っていることでしか新しく面白いと思える景色は立ち上がらないのだと、ようやく最近思えるようになった。

今のところ、僕に蠕動運動はできない。向いていないと思う。だけど、新しい景色を立ち上げる一助にはなりたいから、稽古場が向かってゆきそうな道を必死にならしてみたりしている。

 

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Passmarket|散策者『話』|2022/3/19(土) 13:00~2022/3/21(月) 18:00

話をする意味、わたしの記述。

原涼音 

コロナ禍になってから演劇は今までのようにできなくなり、何となくで続けられていたそれまでの生活に向き合わざるを得なくなった。自分は何ができるのか、どうしたいのか、何がしたいのか、よくわからなくなった。そんな中でも、散策者の活動を続けたり、ペアで活動したりと参加できることはした。それでも、ぽっかり空いた穴のようなものは埋まりきっていなかったように思う。

縁があって一昨年の10月に東京から福島県喜多方市へ移り住み、昨年の1月からは市内のビジネスホテルで仕事をしていた。

喜多方に移り住んでからは、更に演劇から離れてしまった気がした。自然の豊かさは体にいいような気がしたが、コロナ禍で友人や仲間に直接会いづらくなった上に距離まで遠くなってもっと難しくなってしまったし、生で演劇を見るのも容易にできなくなってしまった。演劇を観たいのかどうかもよくわからなかったが、近くにない、いないということの方がわたしにはつらかった。

昨年6月には同居人が東京へ戻り、わたしは一人になった。もちろん喜多方に来て知り合った人もたくさんいるし、慣れない土地での生活を気にかけてくれる人もいた。でもわたしは一人だった。一人だな、と思ってしまった。

 

散策者では次回公演に向けて昨年の5月頃からミーティング等がされていたが、7月頭ごろに「ただ話すだけの会」があった(正式な会の名称は覚えていない。別になかったかもしれない)。11月にオフラインの稽古が始まるまではずっとオンラインだったので、この日もSkype上での集まりだった。近況報告だったり思いついたことを話したりする時間だったと思う。この日の記録は残っていないので詳しいことは正直憶えていない。

ただ、この時わたしは、話すことができる、話せる相手がいるということがどれだけ救われるかということを感じたのだ。

もちろんそれまでも日常生活で話はしていた。職場であったり、市内で参加していたオペラ合唱団であったり。でもそこでは生まれない種類の「会話の場」がこのSkype上にはあった。自分が話したいように話せる場、というか、素直に話せる場、と言えばいいのか。

ただ自分が閉じ籠っていただけと言われればそうだが、その閉じ籠っていたわたしにとっては「人に話す」ということがどれだけ大事だったのかということだ。

 

その後の稽古はテーマを決めてエピソードを話したり、誰かが話したことから思い出したことを話したり、しばらくは話をすることに時間を割いた。時には、今まで人には話そうとしていなかったことを話してしまったこともあった。それでもあまり嫌な気持ちにはならなかった。もしかしたらそれは自分の中でずっとこびりついていて、人に話すことで溶かされることを望んでいたのかもしれない。

「話をする」ということは「癒し」の感覚に近い。

この癒しの感覚を誰かに手渡すことはできるだろうか。

 

今年2月末に東京に戻ってきた。演劇との向き合い方はまだ決められていない。

話を続けながら、ゆっくり決めていきたい。

 

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団体名:散策者

Emai:the.sansakusya@gmail.com

個人情報相談窓口責任者(制作):田中 優之介

散策者の発表会 vol.2『太田省吾の戯曲を声に出して読む』

 散策者は現在公演と発表会の両輪で創作活動をしています。公演は観にきていただいたお客様にパッケー ジングされた作品を楽しんでいただく形式ですが、発表会はふだん劇場では見られない稽古場での実践を 劇団員と参加者とで共有し、作品が作られていくプロセスを楽しんでいただくというコンセプトになっています。Vol.2では太田省吾の戯曲を集まった全員で声に出して読みます。書かれた台詞を読むことで起きる「役と重なる/役から外れる」という事象を見つめ、その時に何が起きているのかを考えていく場になればと思います。とはいえ、本発表会で創造性や読みの技術は求められません。日本語で書かれた戯曲を音読でき上記の問いを共に考えてくださればどんな方でも歓迎いたします。俳優として活動している方はもちろん、演劇に俳優以外の形で関わっている方や演劇に親しみのない方も気軽にご参加ください。

目的
「役と重なる / 役から外れる」の実践と観察、プロセスとしての作品受容。

対象
日本語を音読できる方なら、誰でも歓迎です。各回のコピー代だけ頂く予定です。

スケジュール
2019年

4/6(土)『乗合自動車の上の九つの情景』
4/16(火)『小町風伝』
5/1(水・祝)13:00-16:00『裸足のフーガ』
5/14(火)『死の薔薇 プラスチックローズ』
5/29(水)『棲家』
6/4(火)『更地』
6/18(火) 『↗ヤジルシ』
6/25(火)予備日 ※5/1以外は18:00~21:00で実施します

流れ
1. 一台詞ずつ全員で回し読み  2. 役を当てて読む  3. 空間を使って読む
(上手に読むということはしません。技術向上が目的ではないので安心してご参加ください。)

散策者の発表会 vol.1『白む』 散策タイム

パフォーマンスの上演終了後に、「散策タイム」を実施しました。これは「見る」以外の演劇との関わり方を探るためのワークショップとして考案されたものです。
『白む』での「散策タイム」では、戯曲の一部を黙読・音読し、参加者同士が考えたことや感じたことをシェアしました。上演を見るのとは異なる形で「書き言葉に耳を傾けてみる」ことを目指す時間でした。
以下は、実際に対話の助けとして使った模造紙の記録写真です。参加者の読みや感覚がそれぞれのスタイルで書かれています。

このほかの記録写真はこちらから