GAMECENTER

子どもの頃から、場末のゲームセンターと、花火と、転勤族の家の子が好きだった。それらは皆、共通するところがあって、それはふと気づけば、消えたりいなくなったりするというところだ。妙な取り合わせだが、小さな頃の私にとってそれらは同じことだった。そして等しく、それらは真実だった。

任天堂がゲームキューブのコマーシャルをテレビでやり始め、ある日通りかかると、あのタバコくさいだけの小さな駅前のゲームセンターは空っぽになっていた。しわしわと疲れた目を閉じてみたら、死んでいく無数の戦闘機みたいな花火は海に消えていた。夏休みが明けて登校すると、あの子の机も、貼られた習字もなくなっていた。

「ずっと」、なんて、なんもない。いつかは無くなるし、居なくなる。だけど、その時の、立ち尽くしてしまうような、けれども眩暈がしそうにうっとりと、飲まれるみたいな、その気持ちを、私は忘れることができない。きっと、それは自分もそうで。そしていま、自分のいる、この「今」、この「足元」みたいなものも。目を離したらば、すぐに消えてしまうのにちがいない。

べつに、それってどうしようもないし。それはそれでいいのだけれど、でもやっぱり、仲良しの友達が、なんも言わず、バイバイ一つなしに、夏が明けたら転校していた、というのは、やっぱり悲しかったし、あの感情を掴んでおきたい、そしてまったく別の「今」というものを引っ掻いて、傷つけて、記しておきたい。ということなんだ。私はいま、それをすごく大切にしたいと思う。

 

作家 新居進之介