足について 1

1. 生活と表現

 今や「非日常」という手垢のついた言葉はあまりに胡散臭く、生活から切り離されたものとして何かに接するのは不可能なことだ、と言い切ってしまいたい気持ちは強いものの、表現というものは同時に日常からの跳躍を志向してもいて、長く苦しい制作過程を経て、気がつくと生活に対する意識や感覚はどこかに追いやられてしまっている、跳躍した先で日常生活への着地点を見失ってしまっているということが、わたしのこれまでの制作においてなかったとは言い切れない。今、「足について」という題で文章を書こうとしているのは、足というものが、表現(とくに演劇)と生活とを潔癖に区別することなく渡り歩くために、最も着手しやすい「素材」—明確な輪郭(すなわち「形」)をもち、なおかつ概念や記号とは異なり、無限に多義的な意味生成を志向する物—であると思われるからだ。俳優は舞台に立つのと同じ足で、学校や職場に通うのであって、また観客は劇場の客席に縛りつけられるのと同じ足で、帰路につき電車に乗るのである。
 ただ、わたしには足「について」書こうとするにあたって、注意を払わなければならない点がある。足「について」書くことは、生活と表現を横断する素材としての「足」というものから、かえって遠ざかってしまう可能性を含んでいる。言葉は何か「について」書こうとするとき、往々にして対象から距離をとり、まるでそれを眺め回すように書いてしまう傾向がある。そういう書き方、思考方法が好ましくないのは、実際に(文字通り)一歩踏み出すことが必要になる稽古場で、かえって体を動けなく、動かなくしてしまうからだ。わたしたちは普段歩いたり走ったりするときに、足「について」考えることはしない。それと同じことだ。
 それならばいっそ、足をめぐる複雑な問題系に立ち入るなんてややこしい真似は止めて、いつものように(日常の様態と変わらぬように)舞台の上を歩けばいいじゃないかと思われるかもしれない。しかし、そういう戦略をとると劇場全体における二つの「足」のあいだに、表現として無視することのできない大きな亀裂が走る。俳優の「日常的な」足と、観客の客席に縛りつけられた「非日常的な」足とのあいだに。つまり、そこにいるすべての人が自由に自分の足を動かすことのできる生活空間とはちがい、劇場における観客は自分の足がわざわざ—見るために—縛りつけられているせいで、舞台上で動く俳優の足に大なり小なり見る欲望を抱くことになるが、「日常的な足」(=技術に縛られない足)は往々にしてその欲望を裏切る。これは見る/見られるの関係が前提とされたあらゆる環境に対して言えることである。見られる対象が「自然に」歩くことは、すでにその構造において不自然なのだ。
 観客の足を客席に縛りつけるのであれば、その眼差しの先にある俳優の足は、生活する身体から跳躍し、眼差しに応答できるだけの説得力をもっていなければならない。そのためには、生活とその先とをつなぐ俳優独自の明晰な回路と技術が必要であり、それが十分明晰であるためには生活とその先とをつなぐ言葉の実践も不可欠であるだろう。「散策者」において、その仕事が演出家であるわたしの領分なのか、それとも俳優の領分なのかは今のところはっきりとはわかってないが、稽古場での〈内〉の仕事を文章という形で〈外〉とつなぐのは演出家の仕事だろうと思う。今はまだ、たしかに現場につながるとは言い切れないし、理論というに及ばないほど蓄積は足りないが、これから演技というものを構築していく手始めとして、地道にわたしなりのエッセイを書き進めていきたい。

 

中尾幸志郎