足について 3

3.  一歩おくれて言う、二歩おくれて書く

 

今日はSと線路沿いを散歩した。春らしく隅々が見渡せる天候で、いつもは目もくれないような野草も生き生きして見えた。ふとSが足を止めて、「あ、踊子草だ。」と言った。なるほど、ピンクと白の花びらを衣装みたく纏い、凛とした感じでそれは生えていた。

 

 たとえばこういう具合に日記を書いてみる。これを日記として書くというとき、私はどうしてもあの空虚さを強く意識せざるをえない。特に第三文目の「ふとSが足を止めて、『あ、踊子草だ。』と言った。」など、こんなことを書いて一体じぶんは何がしたいのかと、疑心暗鬼に陥らないわけにいかない。

 これは現実の言葉だ(ったはずだ)。ここで仮に、言葉には、現実の言葉と、日記の言葉と、劇の言葉があるのだと仮定してみよう。

 現実の言葉とは、Sが足を止めて言った時点、地点における「あ、踊子草だ。」という言葉のことだ。現実の言葉に特有の魅力は、その軽妙さにある。「あ、踊子草だ。」—そんなこと口にしなくても踊子草はたしかに存在しているのに、わざわざ「そこに」「踊子草が」「ある」という事実を確認しているのである。無垢だ、とか、ばかばかしい、とか言ってもいい。

 なぜこういうばかばかしい発言が、軽妙な魅力を生んでいるかというと、言葉が現実に対して一歩遅れをとるという、例の空虚さを逆手にとって弄んでいるからだ。いかなる言語をもってしても、「そこに」「踊子草が」「ある」という現実に到達することができないのは自明で、それなのに「あ、踊子草だ。」と言って、無垢に現実に接近し、挫折して見せている。そこにユーモアが詰まっている。

 対して、日記の言葉はどうか。「ふとSが足を止めて、『あ、踊子草だ。』と言った。」—台無しである。かつての軽妙さはまるで失われ、シリアスな仏頂面の言葉がこちらへ差し出される。どうしてこうなってしまうのだろう。まるで、Sが「あ、踊子草だ。」と言ったという現実を、書き手(=私)がとてもとても大事に思っていて、こうやって真剣に書くほかなかったかのようだ。多くの人がじぶんの日記を他人に見せたがらないのは、おそらくこういうシリアスさに対する恥の意識がかかわっている。それはシリアスに書いたからシリアスなのではなく、日記という書きもの自体がそもそも空虚をめぐって書かれる(しかない)から、当初予定していたよりもずっとシリアスになってしまうのだ。

 なぜこうもシリアスになってしまうかというと、言葉が言葉に対して一歩遅れをとっている、つまり言葉が現実に対して二歩も遅れをとっているからだ。ここまで遅延してしまうと、もはや現実の言葉において見られたような挫折感が、無意識のうちに隠蔽されてしまう。無垢に現実に接近するどころか、積極的に現実を隠蔽しにかかる。もちろんこれは第三文目に限った話ではない。「春らしく隅々が見渡せる天候で、いつもは目もくれないような野草も生き生きして見えた。」など、隠蔽に隠蔽を重ねている。この文は、今日実際に見てきた景色を「ありのままに」書こうとして書かれたものではなく、「青空だ。」「春だね。」「気持ちいいね。」「野草だ。」といった現実の言葉に一歩遅れる形でひねり出されたものである。つまり、「実際に見てきた景色」なるものに接近しているような体を装って、じつは言葉の接近する先には空虚しかないという事実、あるいは最後には挫折するしかないという運命を隠蔽しているにすぎないのだ。それゆえに、日記というのは「面白く」—こう言ってよければ小説らしく—書こうとすればするほど、隠蔽を重ねていくことになり、したがってよりシリアスで軽妙さを欠いたものになってゆく。

 では、劇の言葉はどうだろう。何もない舞台に、俳優がひとり出てきて、「あ、踊子草だ。」と言ってみたら。想定される可能性は二つある。一つは、現に何もないのに「あ、踊子草だ。」と言われたことで、言葉の挫折感だけが浮遊し、軽妙さが出る。もう一つは、現に何もないのに「あ、踊子草だ。」と言われたことで、観客が「そこに踊子草がある(ということになっている)のかあ」と想像力を膨らませ、恐ろしくシリアスに、つまらなくなる。

 

中尾幸志郎