俳優の顔、幽霊の顔

散策者第3回公演『アイルトン・セナの死んだ朝』に向けて 

長い宣伝文

1. 

 わたしたちは普段、自分や他の人間に顔があることを自明だと思って生活している。だが、劇の稽古をしていると、そういう自明なことさえ簡単に疑わしくなる。さっきまで自明に顔のあった友人が、目の前で演技をはじめた途端、その顔の所在が分からなくなってしまうことがある。これは別に、宗教的な経験だとか、稽古が難航するあまり見る側の気が狂ったとかいうことではない。ただ演技が上手くいったという、ありふれたことが起きただけだ。

 顔というのは、しばしば個性とか特異性というものに結びつけて考えられる。たしかに私たちは、友人や家族のそれぞれを顔で区別して安心している。だが、私たちが日々顔を見ることで感じている、特異性という直感はほんとうに疑いの余地なく信じられることだろうか。

 太田省吾は、舞台上で役者が振り返ることで起こる、この自明性の崩壊について次のように述べている。

 

この変わり目、身体を他者の前に立てること、このことがあらわしてくる様相を退行とよんでみる。何が退行するのか。<私>が退行する、否、<私>の自他峻別性が退行する。そして相対的に、といっていいのだろうか、自他共同的側面が浮上することになる。 

 

よく、演劇は個性を追求するものだという人がいるが、太田はここで真逆のことを論じている。ここでは、演技という行為は、むしろ自らの特異性(自他峻別性)が疑わしくなるような地点に身を晒すことだと言われている。では、なぜ自他共同的側面が浮上するか。俳優は舞台上で、次のような身体を晒すことになるからだ。

 

第一に、<私>が身体をもってそこに存在しているとは、食って寝て、そしてそれを確保するために、少なくない制度を受け入れているということを示しているのであり、その事実によって他と共同的に維持されている身体である。そして第二に、われわれは類的な身体構造をもち、類的欲望をもち、そしてその身体は、生まれ—育ち—老い—死ぬという絶対過程を歩むという宿命、先天性をもっている身体である。 

 

まさに、舞台上で顔を失う俳優というのは、ここで言われているような身体として立っている人間のことだ。太田はここで、社会生活における「自然な」身体とは異なる、舞台上の身体について述べているが、私が考えたいのも、そのような身体における<顔>のことだ。常日頃身に纏っている、社会性という仮構を剥いで舞台上に立つとき、その人間の顔の所在は途端に不明瞭になる。そのときの人間の顔は、特異的であるというよりも、類的なものになり、いわば幽霊の顔に近づく。

 思うに、劇はそういう幽霊じみた顔で行われなければならない。なぜなら、そういう顔だけがテキストという他者に対峙できるからだ。言葉を解釈したり、「腑に落とし」たりするのでなく、言葉とともに在ろうとすることができるからだ。

 

2. 

 公演直前のこの時期に、わざわざ顔の話をするのには訳がある。それは、戯曲のような台詞形式のテキストでなく、小説形式のテキストをそのまま上演することは、別に驚くようなことではないと予め表明しておくためだ。確かに、今回のテキストは前回の日記形式のもの以上に、かなりとっつきにくいものだった。実際、そう認めざるをえないほど稽古は難航してきたし、正直今も順調とは言えない。だが、俳優の不明瞭になりゆく裸形の顔を見るには、案外戯曲よりも小説の方が向いていると感じることが多いのも事実なのだ。

 描かれる人物はいつも、はっきりとした顔をもたない。どんなに正確に、詳細に顔を書こうとしても、その顔が現前してくることはない。そのため、小説を映画化する際や、戯曲を上演する際は、キャスティングという過程を経て、無理やり一個の顔をその登場人物の名にあてがわなければならない。しかし、映画のことはわからないが、少なくとも演劇においては、この顔の所在は厄介になる。なぜなら、この一個の顔は、テキスト内の全く不明瞭な顔とは対照的に、特異な顔として立ち現れようとしてくるからだ。まさにこのことが、テキストと上演との間に生じる最も根源的な決裂、あるいは断絶につながる。

 この厄介さは、小説を上演しはじめて以来ずっとつきまとってきた問題だった。はじめは顔を持たなかったはずのテキストが、それと乖離した俳優の一個の顔と無理に重ねられることで、蹂躙され、響かずに死んでいく。見ていてはっきりと、安易な再現が通用しないことがわかる。だが同時に、稽古をしていると、人物名のもつ驚くほどの「引力」を感じずにはいられないのも事実だ。俳優は、文中にただ文字として現れただけの人物を、ともすると再現しようとしてしまうのだ。もちろん、それ自体は悪いことではない。だが、この「引力」に引きずり込まれるほどに、顔は何かそれらしき、嘘の明瞭さを帯びてしまう。

 さらに言えば、この「引力」は登場人物の名前など固有名だけでなく、動詞にも強くはたらいている。テキスト内に「泳ぐ」という動詞が出てくれば、たちまち俳優は「泳ぐ」仕草をしてしまいそうになる。だが当然、そのような安易な演技はすぐさまテキストによって蹴られる。つまり、「泳ぐ」という行為自体が押し付けがましく現前し、テキストとしての「泳ぐ」という言葉が死んでいく。このように、テキストはつねに動作による再現を魅了し、惹きつけつつも、いざ再現しようと試みると、その動作を決して受け付けようとしない。

 これだけ書くと、小説の上演とはなんて厄介なんだと思われそうだ(し、これまでわたしもそう捉えていた)が、実は事態は逆なのではないかと考えている。というのも、上で書いたような問題は、何も小説に限ったことでなく、戯曲や上演台本でも同じように生じているはずだからだ。たんに、後者の場合、問題が見えにくくなっているだけだ。戯曲を用いると、俳優の顔は失われていっているのか、かえって厚化粧を重ねているのか、かなり注意しないと気づかないかもしれない。特に役というものは、本来裸になるべく用意されたものであるはずが、その逆に派手な衣装や厚化粧に転じてしまいやすい。それに対し小説は、比較的分かりやすい仕方で、厚化粧した俳優の顔を突き放してくれる。

 だから、ありきたりな言い方をすれば、小説を上演することはわたしたちにとって逆境であり、同時にチャンスなのだ。ここで書いたように、厄介なことだらけではあるが、シーンができた時の喜びはその分大きい。社会生活の中で現れる、あの「自然な」顔でない、何か別の顔。幽霊の顔。それは他者に対峙することの可能性を感じさせてくれるような、希望に満ちた顔だ。

 

演出 中尾幸志郎