台詞を言えないことがある。

散策者第3回公演『アイルトン・セナの死んだ朝』に向けて 

長い宣伝文

2. 

台詞を言えないことがある。それは、単純な覚えの甘さからではなく。

 

散策者で稽古をしていて、台詞を言えないと感じることが増えた。他の稽古場でだって台詞を言えないことはあったけれど、その原因の大半は覚えの甘さだ。そういった覚えの甘さを抜きに考えてみても、この稽古場での台詞の言えなさは確かにあるように思う。

この稽古場における「台詞を言えない」というのはどういうことなのか。この文章を書いている今現在も完全に理解できている自信はない。けれども、そうだからこそ、この「言えない」について言葉を尽くしてみようと思う。そうすることで散策者の稽古場の一端を語ることができそうだから。

 

 

「言えない」とき、具体的にはどんなことが起こっているのか。それをまず言葉にするところから始めたい。「言えない」と思うシーンに共通することを書き出してみる。

じゃあこのシーンをやってみようとなると、私は台詞を口にしながら動いてみる。「言えない」ときというのは決まって、しっくりこない感覚がある。最初は違和感から始まって、次第に「言えない」が確信的になっていくように思う。自分の声も、身体の在り方も、気になり始めたら止まらない。私の思い通りに見せることができているだろうかと思うと、それだけで一杯になっていく。速く話し過ぎてないだろうか、声色が付きすぎているんじゃないか、不用意に動いてしまった気がするな。思わず、こうした色々に頭を働かせ続ける。そんな中でも挽回しようと言ってみたり動いてみたりするけれど、ますます考えこんでしまうことが多い。結果、言えなかったなという現実としっくりこないでいた感覚が残る。そういった結果というのは見ている側にも伝わるところがあるらしい。演出家から指摘されるポイントは大抵しっくりこなかったところだったりする。

 

ここで一度、「言えた」と思えた時について記してみる。きっと「言えない」を語るにはこちらも必要になってくるだろう。

本当は、「言える」について言葉を並べることができればいいのだけれど。不思議なことに、「言えない」と感じることはあっても、「言える」とは感じたことがないような気がする。あったとしても、「言えた」のかもしれないという事後的な感覚だけだ。それだけに、「言えた」かもというときのそれを鮮明に覚えている。以下、具体例として前回の第二回公演の稽古中、一つのシーンを練習していた時のことを記してみる。そのシーンは、廃墟を訪れていた〈僕〉がそこにかつて居住していた〈鯉沼薫子〉の痕跡を見つめたのち、彼女に宛てて手紙を書こうと決意するものだった。

 

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その日、私は早退せねばならなかったので、あらかじめ決められた時間より早くから稽古をすることになっていた。稽古を始めるとなって、一番最初にやってみようとなったのはこのシーン。このシーンはまだ何度も練習したわけではなかったから、どうふるまうかの裁量はほとんど私にあった。舞台には、ブルーシートの上に虹色の花型風車やマグカップ、化粧ポーチなどが置かれている。このシーンではここを鯉沼薫子の部屋に見立てて、私がその部屋に入るところから始まり、出ることで終わりということだけ決まっていた。

一度目。部屋に入って台詞を口にする。近くにあって目についた虹色の風車を手に取った。それは台詞が飛んでしまって慌てての行動だったのだけれど。手にすると回してみたくなり、くるくると回しながらそれに向かって台詞を口にした。しっくりは来なかった。それを見ていた演出家からは、風車を手に取ったみたいに何か一つを手に取って、それを対象に言ってみるのはいいんじゃないというようなことを言われた。それを踏まえて、二度目。部屋に入って台詞を口にした。何か一つを対象に、ということだったのでマグカップに注目してみようかと考えていた。なのに、実際に入ってみると、なぜか自分から一番離れたところにある化粧ポーチが気になった。近づいてみることにした。近くにしゃがんで見てみると、ピンク色でレザー素材のマチ付き、その中にはいくつかの化粧道具。触れてみたくなった。けれど、とてつもなく女性性を帯びて見えたそれに触れてもいいのだろうかとためらう気持ちが生まれた。そこにはもういない鯉沼薫子に対して語り掛けるような台詞を、化粧ポーチに向かって言いながら、少しだけ触れてみた。そうして、壊してしまわないようにその表面をすこしだけ撫でてみた。手紙を書こうという決意を述べるころには化粧ポーチから離れ、立ち上がって歩き出していた。それからその部屋を出た。そこでシーンは終わり。最中は、化粧ポーチに吸い寄せられて、ただただ化粧ポーチのことを考えるだけで頭がいっぱいで、ただただそれだけだった。その時の不思議な感覚が残った。演出家からよかったと伝えられると、もう稽古場を出なければならない時間だった。駅に向かいながらその感覚を確かめ、何が起こったのかを考えた。電車に乗ってからどうにか言葉になったものを書き留めた。そうすることでこの時感じていたことを忘れずに取っておこうと思った。

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今改めて振り返っても、あの時本当に「言えた」のかはわからない(「言えない」が分からないのだから)。けれど、それでも確かなのは、私があの化粧ポーチから、それが置かれたブルーシートという部屋から、稽古場自体から影響をうけたこと。何者かに吸い寄せられ、手をのばすように仕向けられたかのような、それでいて、あの時そこにあった身体の欲望通り身体が動いていたようなこと。それが思い込みであったなら、よく見えるなんてことはなかっただろう。

 

 

「言えない」と感じた時と、「言えた」気がした時を無理やり比較してみると、意識の向く先に違いがあるように思う。前者は俳優自身の言動に意識が向いている。一方、後者は俳優の周囲にあるもの(化粧ポーチなど形あるもの、場の環境や状況といった形ないもの問わず)に意識が向いている。

前者は自問自答を繰り返すような孤立状態に陥っている。何かが生じてその影響を受けるとしたら、震源は自分自身でしかありえない。けれども、その生じさせるということへの動機がないために何も起こらない。何もないまま舞台に立っていると“俳優としてこうあるべき(速すぎるくらいに言ってはならない、不用意に動いてはならない、…)”という思考にがんじがらめにされていく。対して、後者の場合、周りから影響を受けて反応することが可能な条件がそこにある。そこで生じたどのような影響であれ、受け取ると何らかの欲望が生じる。それは次の行動の動機になる。

もしかすると、「言えない」というのは影響を受けて反応するというやりとりに身を置き損ねた時に生じるものなのではないだろうか。影響を受けまいとシャットアウトしたり、ぼんやりと鈍感になっていたりするときに起こるのではないだろうか。

 

では、少しでも「言える」に近づいていくためには。もちろん、影響を受けて反応するということは必要である。ここにおいて、関係性の中に意味を見出せるかどうかというところはひとつヒントになり得る気がしている。言い換えれば、より適当な意味づけが関係性の中で行われるかどうかというところだろうか。

化粧ポーチを見つめたあの時、その姿形から私はそこに女性性を見出していた。この場合で言うと、化粧ポーチとじっと向き合い、鯉沼薫子という女性が登場するテキストを発話する私との結びつきでそこに女性性という意味が生じた。言い換えるなら、テキストという文脈のもと、化粧ポーチと私の関係において意味がより適切に配されたということである。さらに言えば、そうであると同時に、化粧ポーチと私の関係が文脈により正確に合致するものであったとも言えるのではないだろうか。この点で、事前に決めていたマグカップではなく、より心惹かれた化粧ポーチに近づいたことはプラスに働いている。場から生じた影響と、それによって生じた欲望を抑えて行動することは、影響を受けることを拒否するあり方である。拒否の先には孤立しかなく、意味づけ以前に関係を持つことすらできなくなってしまう。

 

ここまで散策者の稽古場での「台詞を言えない」について言葉を並べてきた。この「言えない」は場と関係し合えず、影響を受けたり、それに反応したりというコミュニケーションができないでいる時のことなのではないかというところである。

影響を受けないでいることはラクだし、省エネである。逆に、影響を受けることはエネルギーがいることで、かなり大変だ。ましてや、反応することなんて。けれども、だからこそ、関係し合ってコミュニケーションできると、計り知れない何者かが立ち現れるんじゃないか、なんて考えていたりする。

 

岡澤由佳