足について 2

2. 日記に書かれた、買い物の「足」

 足「について」書くことを最後まで潔癖に避けてこのエッセイを綴じることはおそらくわたしにはできないが、「について」の引力に対するせめてもの抵抗として、最近書いた日記を持ち出してみたい。日記という書きものの形式は、とりわけ生活に密着した表現物であるし、日記には大抵その日の行き先や自分の行動のことを書き記すわけだから、その行間には無意識にも「足」のことが刻み込まれている。それゆえ、日記を読むことは「足」「について」の文章を読むこととはちがい、行間に書き込まれた「足」のムーブメントを追うことになる。
 以下の日記は、「散策者」が稽古の一環として二子玉川のショッピングモールに行った日のもので、わたしがこれを書いたのも、普段から日記をつける習慣があるからではなく、日記を書くまでがワークだったからだ。ワークの主な内容は、ショッピングモール内のどこかで各々の思う「舞台」を見つけてきて、その地図を描いてくるというものだった。
 今この日記を読み返すと、ワークの記録としてではなく、買い物の記録としても読めることに気がついた。エッセイのこんなにも冒頭で、ワークの(それも演劇の)「足」を論じてしまえば、最終的にあまりにも生活の場から離れすぎる危険がある。ただ、買い物の「足」ということであれば、この日記の上で思考を走らせることにそれほど問題が生じなさそうだし、何より自分の書いたものであるから他人のプライバシーを晒さずにもすむ(個人名はイニシャルに変更しておいた)。買い物に関する部分を抜粋して引用する。
 
 
1/26(日)
 9:00に二子玉川駅到着。改札を出るとSだけいる。ポツポツと雨が降っていて、結構寒い日。(中略)
 たしか3年前に何度か来たけど、向こうのほうしか覚えてないや、あれUと来たとき以外、誰と来たんだっけ、Mと来たっけ、結構忘れてるもんだなと思いながら、「蔦屋家電」に入った。「舞台」を見つけなきゃっていう意識と、カフェインによる変な血のめぐりのせいで、あんまり心地よく歩けない。いったん、さっき話したこと全部忘れて、お店を楽しもうと思った。
 一番近づきやすい本のエリアをうろうろしてみたけど、手にとるにはなかなか至らない。家電は高いし、そんなに興味もない。売り物のソファがあって座りたかったけど、そのエリアはまだ開放されてなかったし、たとえされていても一人では座れないなと思った。誰かと行動をともにすればよかったと思いながら、特に何にも触ることなく蔦屋家電を出た。なんとなく来た道を戻っていたら、50mくらい先のさっきの市場みたいなところにSがいた。目論見がかなってついていったら、また「蔦屋家電」にきた。ファミレスの呼び鈴みたいなのを二人でいじくってたら、店員の女性がそちらはIHでして…と絡んできた。その変なリモコンで火力を調節できるらしい。Sが聞いてるふりをしてくれたので、リモコンをいじり続けて話が終わるのを待った。ほかにも、悪目立ちしそうなユニオンジャックの冷蔵庫とか、別にふつうのコーヒーミル(豆が置いてあって試し挽きできた)とかいろいろあった。あわよくばS(※ここまでのSとは別人)の誕生日プレゼントを見つけようと思っていたら、目立つ色のサンダルみたいなのがあって、試し履きしたらすごくふかふかだった。時間があったら買おう。もう11:00を回ってたので、地図を書くためにSはいなくなった。
 
 
 わたしはこの日、蔦屋家電への二度の来店のうち、Sと入った二度目の方が居心地よい時間を過ごせたのだった。一度目の来店について、わたしは「家電は高いし、そんなに興味もない。」と書いたが、その後二度目の来店ではいろいろと家電製品に触れてみたことを書いている。変化の要因は明らかにSの存在だった。特に目当てのものがあるわけではない買い物は、一人よりも誰かと一緒にいた方が「上手に」歩けるものである。「上手に」とはつまり、それが「技術」の問題にかかわるということだ。わたしは買い物を誰かとともにするという一見何でもないことを、ここではあえて「技術」と呼びたい。なぜなら生活におけるこのちょっとした工夫は、すでにある意味で表現のアナロジーであるからだ。
 「技術」という言葉は、標準よりも秀でていること、巧みなことに対して使われる言葉であるから、その意味で「ふつうの人」の日常的な動作とは異なる次元にある、といった感じを与えてしまうかもしれない。しかし、「身心変容技法」などと言われるような技術(技法)を探究していた、世阿弥やグロトフスキのことを思い出してみると、たしかに彼らは尋常ならざるからだの使い方を開発したのかも知れないが、その方法は空から才能が降ってくるみたいな神秘的なものではなく、日常のちょっとした工夫と地続きなもの、「ふつうの人」にもできるような明晰なものであったように思える。この二人に共通する点の一つは、演技をまず「歌/謡」からはじめようとしたことだ。歌は人間が演技するにあたって、とても有用な道具になる。わたしたちは気分がのってどこかで歌いだすとき、自然とからだを動かすことをしている。別に手「について」考えていたわけではないのに、手は踊るようにあちこちへ向かっていたり、控えめにリズムを刻んでいたりする。足「について」考えていたわけではないのに、足は気づくとステップを踏んでいたり、洗濯物を干す動作にリズムをつけていたりする。動く理由や動機をもてず、一歩も踏み出すことのできなかったからだが、「歌」というちょっとした工夫を挟むだけで理由も動機も必要なく、自然な仕方で動くことができるようになることがある。
 なぜわたしはSと一緒の方が、ショッピングモールを上手に歩き回ることができたのか。それは、わたし(=歩くという行為の中にある人という意味で、以降「歩者」とよぶ)の意識が多方向に分散されることで、その足の運びが「遅足」になったからだ。誰かとともに歩くことで、歩者は店内を一周ぐるっと回ることだけでなく、相手とコミュニケーションをとることや、足取りを調和させる(歩く速さを調整する)ことにも意識を向ける。
 わたしが思うに、歩者の足の運びはなによりも目的やベクトルの有無と結びついている。明確な目的が存在するとき、たとえば、玉ねぎと卵を買いに近所のスーパーへ寄るとき、その足の運びはおのずと「早足」になる。これは歩者の意識にとって、目的地以外のあらゆるディテールが問題にならないからだ。スーパーの入り口から青果コーナーに至るまでのあいだに、人目をひくように惣菜のセール品が置かれていたとしても、「早足」が解除されないかぎり、それを手にとってカゴに入れるか否か悩むことはない。「早足」の歩者にとって、目的地までに通過する道のりはのっぺりとした色のない世界であり、あらゆるディテールはたんに煩わしい存在である。ところが買い物をしていると、思いがけず惣菜のセール品に出くわし、魅力を感じて歩みを遅めるということもよくある。その場合、歩者の「早足」は解除され、一方向的な目的意識が多方向に拡散される。世界に色がつくのだ。日記でも、二度目の来店の方がより細やかに記述がなされていることがわかる(一度目についての記述が119文字であるのに対し、二度目については266文字書かれている)。特に目当てもなくぶらぶらとめぐるショッピングモールのような場所では、このような「遅足」の方が周囲の環境に順応しやすい。
 生活のちょっとしたところにもついつい技術の必要性を感じてしまうのは、都市という空間のなかであまりにも多種多様な足どりが要請されるせいで、その切り替えを自然に遂行することがほとんど不可能であるからではないだろうか。わたしたちの「足」は、ショッピングモールを歩いたほんの数時間後に近所のスーパーへ向かわされるということをいつも強いられている。だが、人間の「足」が環境に適応する、つまりその空間に対してもっとも適切な時間感覚をつかむには、それなりの時間を必要とする。わたしがショッピングモールを上手く歩けなかったのは、わたしの意識が電車や自動車の速度にある程度慣れてしまって、「早足」を常態化しているからではないだろうか。都市生活のなかでは動物的な、ニュートラルな「足」の様態を保っていることはほとんど不可能で、わたしたちの「足」は程度の差はあれつねに急かされている。だから「早足」になるのに技術はいらないが、「遅足」になるためにはちょっとした工夫が必要なのだろう。
 わたしは買い物のときだけでなく、たとえば散歩するときにも「遅足」の難しさを感じる。せかせかとした生活からすこし距離をおこうと公園まで出かけたつもりが、何を見てどう歩けばいいのかわからず、気づくとせかせかと外周を回りそのまま帰ってしまった、ということもあった。だが、こういう散歩の「早足」には、音楽やラジオがよく効くものだと最近わたしは思い当たった。どういう作用がはたらいているのかはっきりとはわからないが、意識を聴覚の方向へ分散させることで「遅足」が生まれるということなのだと思う。意識の分散がおこり「遅足」になると、今度は自ずと空気の感触やにおい、周囲の景色が気になってくる。ラジオを流しながら神田川沿いを歩いていたわたしは、ゆっくりと時間をかけて、失われた時間を補給しているような感覚をおぼえた。世界に色が戻った。

 

中尾幸志郎